理数系武士団の研究‐‐番外編・もし今、司馬遼太郎が「竜馬が行く」を書いたなら「大政奉還」をどう説明したか

理数系武士団の研究 -- これまでの連載
第1回: なぜ今の政界から「現代の竜馬」は現われないのか
第2回: 竜馬のファッションは渋谷系か秋葉系か

 大河の「竜馬伝」も大詰めで、大政奉還のくだりに差しかかっていますが、それにしてもこの国ではあの時、一体なぜあのような「政権を無血で返上してしまう」などということが起こったのか、まことに不思議なことです。
 しかしその舞台裏の仕掛けはそう簡単なものではなかったらしく、「竜馬がゆく」にも大政奉還に関して「政治がもつ魔術性をこれほどみごとに帯びている案はないであろう」と記述されています。ところがその魔術性というものが、当時筆者は司馬作品を読んでさえ完全には理解できなかったような覚えがあります。

 しかし私は、もし司馬遼太郎が数十年後に「竜馬がゆく」の執筆を始めていたなら、そのための絶好の例を一つ挙げていたのではないか、という気がするのです。つまりもし同書の執筆が現在だったなら、この二十年ほどで国際社会に起こった出来事と幕末を比較対照し、それによって話がもっとわかりやすくなっていたかもしれないと思われるのです。そこで一種の番外編として、今回はそれについてちょっと述べてみましょう。

とにかく薩長合わせても量的には絶対弱かった

 この話をする前にまず、一つ見落とされ易い点について述べておくと、とかくわれわれは当時の幕府がひどく衰退していて、一押しするだけで簡単に倒せたというイメージを抱きがちです。
 確かに史実では幕府は本当に倒れたのですから、そう思えるのも当然ですが、しかし実際には、たとえ薩摩と長州が手を組んだといっても、絶対的な体重という点では比較にならないほど幕府よりも弱いものでしかありませんでした。
 それは当時の薩長の指導者にとって、胃が痛くなるような悩みの種で、例えば海軍力だけを見ても、量的には薩摩と長州の海軍戦力を合わせても幕府海軍に全く太刀打ちできず、本気で幕府が海軍を繰り出してきたならたちまち粉砕されてしまう状況にありました。
 大河の「竜馬伝」では何か、薩摩と長州が合同すれば誰が見ても天秤が即座にそちらに傾く、という描写になっていますが、現実は全くそんなものではなかったようです。

幕府が本当に倒れるなんて・・・

 実際に彼らはぎりぎりになるまで、まさか幕府が本当に倒れるとは想像していなかったらしく、とにかく彼らはいざとなったら天皇という切り札だけを抱えてどこかへ逃げ出し、地形の要害の中に篭って抵抗を続けよう、ぐらいにひどく悲観的な予測をしていたと言われます。
 つまり幕府が衰退したといっても、それはちょうどそれは現在の世界で「米国が衰退している」というのに似ていて、確かに今の米国も内憂外患ですが、かといってどこかの国が米国を倒せるかというと、誰もがそれは非現実的だと答えるでしょう。
 そのためこの話は、まずそのフィルターを通して眺める必要があり、実際に倒幕というのは想像されるより遥かに難しいと考えられていたようです。

大政奉還の魔術性(1)・幕府側から見ると

 しかし幕府側は幕府側で悩みは深刻でした。何しろ政権を担っているという責任のため、その体重以上に重い問題を抱えさせられて身動きがとれず、むしろ身軽な薩長を羨ましく思っていたかもしれません。
 そう考えると、いっそ政権を投げ出してしまえば、現在手かせ足かせになっているそうした厄介な政治問題も一緒に投げ出して、一挙に行動の自由度を手にできることになります。
 そしてひとたび行動の自由を得てしまえば、徳川側はその体重差を十二分に活かして薩長を圧倒することができるでしょう。
 こうしてみると、幕府側にとっては「大政奉還で政権を投げ出す」という策が、負けを認めるどころかむしろ意外に「攻撃性」を帯びたものだったことがわかります。

リセットで体重差が活きてくる

 これは薩長側にとっては深刻な懸念で、とにかくそのようにして一種のリセットが行われると、体重の差という弱点(薩長側にとって)が一挙に甦ってきてしまうのです。
 そしてこの「たとえ政権を投げ出しても体重差が残っていれば主導権を奪回できる」というのは、実は少し前の国際社会で(これほど劇的ではありませんが)やや似たことが現実に起こっていました。
 といってもそれは米国のことではなく、むしろもう一方の超大国の話で、ソ連が崩壊して現在のようなロシア共和国に移行する際に、それとかなり似たことが起こっていたというお話です。

ソ連崩壊の「大政奉還

 そもそもかつてのソビエト連邦の内部は、そう思って眺めると徳川時代の日本と一つ共通点をもっていたと言えなくもありません。
 つまり徳川体制の場合、各藩は一種の小独立国で徳川はその盟主に過ぎませんでしたが、ソビエト連邦もそれとやや似て、名目上はウクライナとかリトアニアとかの共和国が「共産主義」という旗印で一つに集まり、ロシアがその盟主として中心にいるという、単なる「連邦」だったわけです。
 しかし当時はもう共産主義は終わりだ、というのが世界的な風潮で、その盟主であることはそれ自体が重荷となっていました。そのためもしロシアが、自分は共産主義の盟主をやめます、と宣言したとすれば、まさしくそれは共産世界の「大政奉還」だったのです。
 
 その場合、ウクライナなどにとっては、ひとたびロシアが共産主義とその盟主の地位を放り出してしまえば、もはや自分たちもロシアと同格のれっきとした独立国で、例えばロシアに従わずに米国と独自に同盟を結ぶなどということをしても、一向に差し支えない理屈になります。
 しかしロシアにとっては、たとえその地位を投げ出しても、旧連邦圏の中ではロシアの体重は圧倒的に大きく、かえってその体重を活かすことで、引き続きそれらの国の盟主たりうる、という計算が十分に成り立ち得ます。

徳川慶喜の攻撃プラン

 これは全く当時の幕府の立場そのもので、徳川慶喜の頭にあったのもこういう構図ではなかったかと思われます。そしてその後のロシアを眺めると、確かにロシアは「大政奉還」に成功したのであり、確かに一時は惨憺たる状態になりましたが、周辺諸国との力関係は昔どおりに復活し、ウクライナなどから見れば、以前と同様の脅威として甦っています。
 逆に言えば薩長が怖れていた事態もそのようなもので、徳川慶喜大政奉還を決意したとき、まさにそういう鋭い攻撃性を意図していたと想像されます。
 そして共産主義を投げ出したロシアが実際にある程度それに成功していたのを見ると、それは決して空論ではなく、薩長にとっての一大危機でした。ではこの手に汗握る状況で、薩長側の思惑はどうだったのでしょうか?

大政奉還の魔術性(2)・薩長側から見ると

 しかし薩長側から見ると、どうやら大政奉還というプランの中には、それはそれで彼らに有利な、全く別のメリットが秘められていたようです。
 つまりもし徳川慶喜大政奉還という驚天動地のプランを打ち出した場合、そのまさに天地がひっくりかえるような衝撃で、少なくともその瞬間には幕府内部も諸藩も茫然自失の状態に陥るはずだということです。
 確かにある程度時間が経ってしまえば、皆がその驚きから立ち直って冷静な判断力を取り戻し、再び防衛体制を整えてしまうでしょう。しかし大政奉還が行われた瞬間には、誰もが何をどうすれば良いのかわからない状態に陥るはずです。(実際に20年前の旧ソ連でもソ連邦解体の瞬間にはそういう麻痺状態が起こりました。)
 要するに大政奉還の瞬間からせいぜい3ヶ月ほどの間は、巨大な幕府が完全な麻痺状態に陥って、何らの組織的な抵抗もできなくなることが予想されるわけで、薩長側が注目したのは、まさに大政奉還のもたらすその側面だったというわけです。

一瞬の麻痺状態を捉えて錐のように江戸を突く

 それにしても現実の史料をみると、薩摩側にとってもこの大政奉還が行われるまでは、どうやら江戸進撃など全くあり得ない非現実的なプランだと考えられていたようです。
 しかし西郷などのたった一握りの人間だけは、大政奉還という予想外の事態によって、ほんの短い間だけそのように薩長側に巨大なチャンスが生まれることに気づきました。つまりこの3ヶ月程度の間だけ、幕府側が完全な麻痺状態に陥って組織的な抵抗ができず、薩長の乏しい戦力でも無人の地を行くような進軍ができるはずだということです。
 しかし逆にその期間を逸してしまえば、今度は大政奉還のもう一つの顔によって、幕府側がどんどん力を増してしまい、そうなればもはや薩長側にはチャンスはなく、下手をすれば滅ぼされるのは彼らの方です。つまり大政奉還によって突然、双方に大勝利と大敗北の可能性が同時に訪れてしまったのです。
 そのため西郷は、この短い期間に全ての決着をつけてしまう以外に生き残る道はないと判断し、その答えが、この短時間の麻痺状態に乗じて一挙に江戸を突いてしまう、という驚天動地のプランだったというわけです。

名人同士の手に汗握る攻防戦

 要するに徳川慶喜大政奉還の一方の側面である「政権という重荷を投げ捨てれば体重差で圧倒できる」という性質に注目し、西郷はもう一方の側面である「皆が呆然としている一瞬の麻痺状態を捉えて心臓部を突く」という性質に賭けたわけです。
 こうしてみると司馬遼太郎の「魔術性を帯びている」という言葉の意味が良くわかります。そして徳川慶喜、西郷の両者ともが、同じ一つの大政奉還というプランの中に、自分の側に有利な最大の攻撃性が秘められていると見ていたわけです。
 そうやって眺めると、この二人の対決はまさにその互いの一瞬の隙を突こうとする、名人同士の手に汗握る攻防戦だったことがあらためてわかります。

竜馬暗殺「薩摩犯人説」は現実的か?

 ところで少し余談になりますが、とにかくそのように当時の薩摩は、たとえ戦争をやっても本当に勝てる自信などなかったらしく、そしてそう考えると例えば「竜馬は本当は薩摩に暗殺されたのではないか」という説なども、そのフィルターを通して見直す必要がありそうです。
 つまりこの時期の竜馬には、少なくともまだ倒幕側の海軍の一翼を担う手駒としての価値があり、状況がよく定まらないこの時期に、手の中で潰してしまうには、少々惜しい駒だったことは確かでしょう。
 確かに竜馬は一時、薩摩に水を差すような邪魔な動きはしたかもしれませんが、その程度のことで早々とそれを潰してしまうほどの余裕が薩摩側にあったのか、どうも私には正直ちょっと疑問に思えてしまうのです。
 

竜馬自身の見解は?

 まあその話はともかく、それならば肝心の竜馬自身はこの大政奉還というプランをどう考えていたのでしょうか?
 筆者の個人的見解としては、基本的なところでは西郷とそう変わらなかったように思えます。ただ一つ違うのは、竜馬の場合にはあわよくば、これでそのまま丸く収まってしまうという可能性も3割ぐらいはあると期待し、その路線も一応捨てていなかった、ということだけでしょう。
 ただし成功の見込みはそれほど高くないので、もしそれがうまく行かなければ、そのまま西郷路線にスイッチすれば良い、というあたりが本音だったと思います。
 そもそも竜馬にとっての最大の関心事は、もし内戦が起こってもそれを長引かせない、ということにあり、それが長引けば西欧列強の食い物にされる、というのが海舟から受け継いだ信念でした。
 その観点からすると、もし内戦が起こっても大政奉還が行われていれば、幕府側は政権という大義名分を失って単なる大きな藩の一つの立場に落ちるので、少なくとも日本を二分する大義名分同士の激突という構図にはなりません。
 そうなれば内戦は確実に小規模になるはずで、多分そのあたりが、竜馬の頭にあったビジョンではなかったでしょうか。(そしてそれは完全にその通りに現実となったのです。)

誰の評伝にも収まりにくい話題

 それにしてもして筆者が最初に「竜馬がゆく」を読んだ時にはさすがにそこまではわからず、その後に旧ソ連からロシアへの移行というドラマを眺めて、初めてその意味がわかるようになったように思います。
 そのため(筆者の勝手な想像ですが)ひょっとしたら司馬遼太郎も天国で、ソ連崩壊の話があればそれを例にとることで、もっとわかりやすくに描けたのに、と悔しがっているかもしれません。
 もっともこうしてみると、その本当のドラマは、竜馬の死後に起こっていたことになるわけで、そこまで書くとかえって劇的に話を盛り上げることが難しくなったということも考えられます。
 そしてとにかく大政奉還の一方の主役は竜馬だったのですから、その肝心の竜馬評伝の中だけではうまく収まりきらないことも、この話がミステリアスであることの一因なのでしょう。