震災後の経済危機を数学の力でどう救えるか・第1回

 以下の内容は、現在の震災後の日本が抱える経済的な困難に対して、新しい数学的ビジョンから導かれる一つのアイデアが、その解決のカギを提供できるかもしれない、という話題である。
 実はこれは震災前からアップが検討されていたものだが、震災とそれに伴って今後予想される経済困難ゆえに、以前にも増して重要性を帯びることになった。
 そのため、この件に関して将来に漠然とした不安を抱えている方は、是非とも目を通してみることをお奨めしたい。

震災危機は経済面の方がより深刻

 さて今回、確かに震災の被害は甚大だったが、しかしそれでも自然災害そのものに関しては、阪神大震災も含めて日本は何度もそこから立ち直ってきており、そのため国民はそれについてはある程度の自信を持っているし、諸外国も、まあ日本ならその程度のことはできるだろうと思っているはずである。
 しかしその後にのしかかってくるはずの経済の問題に関しては、そういうわけには行かない。もともと震災前から日本は不況に沈んでいて、国の財政も膨大な赤字を抱えて危機的状況にあり、もう日本経済には復活する力はないという「日本衰退論」が、海外でも大勢を占めていた。
 そこをダブルパンチのように震災に直撃されたわけで、ただでさえ財政危機にあった政府は、復興のためにさらに巨額の予算を組まねばならない立場に追い込まれている。そのため多くの国民は、それが大増税や不況などの形でどう国民全体に及んでくるかに関して、放射能以上に不安を抱えており、その不安心理がさらに経済を冷え込ませているように思われる。

2つのアイデアのペアが脱出路を提供する?

 しかしここで、従来盲点となっていた数学的ビジョンを新しい形で応用し、それをうまく現在のIT技術と組み合わせて、2つの新しいアイデアをペアの形で導入すると、意外なことにそれをかなりの程度まで解決しうるかもしれない、一つのプランが浮かび上がってくるというのが、以下の内容である。
 もっとも何しろ非常に大きな話なので、まだまだ相当に細部の議論は必要である。しかし逆に言うと現在のように根本的困難を抱えた状況では、小手先のアイデアを即席に組み合わせただけのプランでは問題は解決できず、基礎から大回りしてじっくり考えられた全く新しいものがベースにない限り、結局役に立たないことは、恐らく誰もが理解していることであろう。
 そしてたとえ単なる一つの候補プランに過ぎずとも、とにかく現在の状況下では「何か方法がありそうだ」という期待感や希望の感覚こそ、何よりも必要であろうと筆者には思われる。そのため以下は、そのようなものとして目を通していただければ幸いである。

震災前から日本はどんな基本問題を抱えていたか

 さてこの問題に切り込んでいくには、そもそも震災以前の段階で日本や世界がどんな根本的問題を抱えており、それがどういう基本構造に起因していたのかを知らねばならない。
 実際それは、災害への一応の処置が終わった段階で、あらためて国の重大問題として再び表面化してくるはずであり、そこを何とかしない限りは、まるで船底に穴が空いたまま走っている船のようなもので、結局は復興作業も足を引っ張られていくはずなのである。
 逆にそこを解決することは、ひいては結果的に復興のためにも決定的な武器となってくるはずで、そのため以下にひとまずそれを見てみよう。

「王様と奴隷」に二極分化を始めていた世界

 まず震災前の経済世界の何が問題だったかというと、それは言わずと知れた「格差の拡大」、要するに現代の社会が「王様と奴隷」の世界に極端な二極分化を始めているということである。
 つまり一方には、リーマン・ショック直前の米国の投資銀行のように、何億ドルもの資金が集まる世界があって、そこではほんの一握りの勝ち組だけが、幾何級数的に富を増やしてそれを独占する「王様」の世界になっている。
 その一方で、就職氷河期にあった日本の若者は、大学を出ても正社員になれず、派遣から派遣へ渡り歩いて、やがては年齢の壁でそれも切られていく「新下流層」の予備軍となっていた。また全国的に見ても地方の経済はどんどん疲弊し、都市部でさえ商店街はシャッターが閉まりっぱなしで、そこからはい上がる手段が見つからず、そういう場所は経済的には震災前から「奴隷」の境遇を強いられていたわけである。

両者の差はこういうカーブで拡大する

 つまり両方を俯瞰してみると、王様の世界に集まる金の金額は、次のグラフのAのように幾何級数的に増大する上昇カーブとなっているのに対し、奴隷の世界に集まる金は、グラフのBのようにどんどん先細りするように下降するカーブとなっている。

 これは何ら誇張ではなく、Aの部分に集まる投資銀行などのマネーは、最近では世界全体の実体経済部分のGDP総額(つまり人間社会が生活に必要なモノを売買するために世界中で動く金の全部)を大きく超えており、特にリーマン・ショックの直前には、実にその3倍以上という莫大な量に膨れ上がっていた。
 その一方で、Bの部分の世界の困窮というものは、例えば百円ショップなどを覗いてみると、それが今までの時代とは次元の違う、根本的な深刻さをもつものであることがよくわかる。
 実際そこでは、かつて日常生活の必需品だった工業製品が、腰を抜かすほどの安値で売られているのであり、そうしたものを売っていた小売りは生活が成り立つのかと心配になる、というより、もはや「そうした商品を作って売ることで生活していく」という、従来の経済の常識自体が成り立たなくなっているのである。

現在の重大問題も根はここに

 そのように「王様と奴隷」の問題は、従来の常識とは次元の異なるほどの根本問題として現代世界にのしかかっていたわけで、そもそも震災前からの国の財政危機の問題にしてからが、実は大きく眺めると結局はこの構造に起因していたのである。
 つまり国内の経済社会全体がそのように、Aの勝ち組の部分がどんどん肥大していく一方で、Bの負け組部分がどんどん痩せていっているとなると、やはり政府としては、どうしても負け組のBの部分に資金を援助してやらねばならない。
 当然ながら政府がそのようにBへの支援の予算を組んだ場合、そのための支出が増えて、政府の財政は一時的に大幅に赤字になる。
 しかし従来の常識ではそれは心配ないとされていた。つまり政府がそのようにしばらくBに援助してやれば、やがてBは力を盛り返し、彼らがAの部分に追いついて国全体が元気になった時点で、あらためて財政を黒字に戻せばよいという理屈になっていたからである。

いつの間にか破綻の宿命を抱えていた財政

 そのため国もそのつもりでいたのだが、しかし経済社会は、気づかぬ間にそんな理屈が通用しない世界に変わっていた。それというのも何しろAの部分が幾何級数レベルで増大していくため、Bの部分に多少の資金を算術レベルで注ぎ込んでも、全く追いつくことができなくなっているのである。
 しかしそれでもBへの支援をやめるわけにはいかず、これではまるで底の抜けた風呂桶に水を注ぎ込むようなもので、状況が全く好転しないまま財政赤字だけがどんどん拡大していくことになる。
 実は「国と地方」の問題も含めて、ほとんどの赤字の問題の背後には、大きく見るとこういうメカニズムが存在しており、震災前からの日本の財政危機も、結局はそうやって拡大したものである。
 要するに、もともと震災前からそういう問題を抱えていたところを、ダブルパンチのように震災に直撃され、20兆円とも30兆円とも言われる復興のための予算を組まねばならないというのが、現在の日本の状況である。

意味がなかった?「財政再建」の議論

 それにしても問題の根本部分にそういうものがあったとなると、今にして思えば震災前から行われていた財政再建の議論なども、最初からほとんど意味が無かったのではあるまいか。
 つまりこの部分にメスを入れることなしに財政再建をしようとしても、それは風呂桶の底に穴があいたままの状態で、家中から必死で水をかき集めてバケツで注ぎ込むようなものであり、多少の増税や倹約でどう水を確保しようが、その効果はあっという間に無に帰す代物だったのである。
 要するに多少の増税にせよ節約にせよ、やってもやらなくても長期的にはどのみち結果に大して違いはなかったという、何とも驚くべき構図がそこに存在していたわけである。

ここに起因する世界の重大経済問題・・・何と実はほとんど

 そして実はこれは必ずしも経済世界だけに見られる特有の現象ではなく、もっと深い物理的メカニズムを持った問題で、それは「縮退」というメカニズムに支配されているのである。
 その詳細については次回以降に述べるが、とにかく良く見ると、現在のほとんどの経済問題の背後にこのメカニズムが存在していることがわかってくる。しかしそれらを具体的に論じているとそれだけで本1冊分になってしまうので、とりあえず表題だけでも列挙しておくと(それらの具体的な中味は末尾の「注」を参照)、
・一向に止まらない格差の拡大
・それに当てるための財源の不足
・それが原因で悪化する国家財政と将来の大増税への不安
・増大する一方の投機マネーとその跋扈による原油や食料品の価格上昇
・それをきっかけにした中東動乱
・震災を食い物にする投機マネーが日本の復興を阻害する懸念
等々、あまりに多くて到底一度では頭に入らないほどだが、とにかく現在の新聞の第一面で語られる世界全体の重大な経済問題の大半が、基本的にこのことから発していることがわかるのである。

単純に解決策を考えると・・・・妙案?

 ではこのような二極分化によって、経済世界全体が泥沼に沈み込んでいる状況下、われわれは一体どうすれば良いのだろうか?しかしこの場合、シロウト目で細かい問題を全部無視して素朴に考えるならば、答えそのものは比較的単純である。
 つまり問題を整理すると、要するにAの部分に金が集まりすぎている一方、Bの部分には金がなくて干上がっており、政府が後者を支援しようにも、財源がないというのである。だとすればAの部分から税金をがっぽりとって、その金をBの支援に回せば良いではないか?

 要するに、「巨大化する投機マネーのような『A』の部分から多額の税金をとって、それを新下流層や被災層の『B』の部分に回す」というわけで、確かに理屈としてはその通りである。
 しかし、経済について僅かでも知っている人なら、それがなぜできないかも良く知っており、経済のプロに聞けば即座にその実現の可能性を否定するはずである。ではそれがなぜ出来ないのかを次に見てみよう。

それが不可能な2つの理由

理由1・ まずそのプランというのは、要するに富裕層に対して累進課税の税率を途方もなく重くするということで、早い話、国内の金持ちが持っている富を政府があらかた強制徴収して貧困層に分け与えようというわけである。
 しかしながらそのように、儲かっている個人や企業などから大量に税金をとった場合、そんな重い企業増税はかえって企業などの力を弱め、経済の活力を奪ってしまう。
 そもそもこれは極論すれば、国中から「金持ち」という存在を無くして国民全体を平等化しようという、一種の過激な社会主義思想で、そんなものがうまく行かないことは過去の共産主義国の無残な失敗で証明ずみである。
 
理由2・ 第二に、Aの部分の主力をなしているのは投機マネーだが、その種のマネーは何しろ国境を越えて動き回るため逃げ足が速い。そのため政府がそこにそんなに重い税金をかけようとした場合、それらの資金は国内からどっと逃げ出して、もっと税金の安い国に向かってしまう。
 その結果何が起こるかというと、その国は経済成長に必要な資金にも一緒に逃げられて、国内には十分な投資資金が残らず、経済全体が資金不足の貧血状態にあえぐようになってしまうのである。
 実際、オバマ政権がリーマン・ショックの直後に、この大災厄の元凶となったそうした投機資金に規制を加えようとしたことがある(もっともそれは必ずしも税率の話だけではなく、投資銀行役員の過大なボーナスなども含めてもっと一般的な規制を目指したものだったが)。
 しかし経済界からは即座に、そんなことをすればマネー全体が中国などの他国に逃げ出して、米国は金融センターとしての特権的地位を失うことになりかねない、との危惧の声が上がり、オバマ政権も結局はそれを認めざるを得ず、一度は振り上げた拳を止めて断念する他なかったのである。

ところが数学的に盲点に切り込むと脱出ルートがある

 このようにそれは出発点でかなり根本的な問題に遭遇してしまうわけで、確かにこの「Aから税金をとってBに回す」というプランは、もし実現できれば現在の難題の解決策たりうるであろうが、残念なことに現実にはそれは不可能であるというのが、ちょっとでも経済について知っている人の常識である。
 しかしながら、この「王様と奴隷」現象の源となっているメカニズムを数学的に解析してみると、意外なところにそれを可能にするヒントが隠されていることがわかってくるのである。
 つまり理系のその知識を使うと、今まで常識では不可能とされていたそういう話にも一つの盲点があることが浮かび上がってくるのであり、そこを集中的に攻略すれば、意外な光が見えてくるのである。では次回にいよいよその内容について見てみることにしよう。(以下、次回に続く)

 
注) 先ほど列挙した世界経済の重大問題について、その内容を以下にもう少し補足しておこう。
・まず言うまでもなく、「格差の拡大」はずばり先ほどのグラフそのもののことで、これはどの国でも数年前から大問題となっているにもかかわらず、いずれの国でもほとんど好転の兆が見えない。
・そのためどの国の政府もBの層を何とか救済しようと、何とか予算を組もうとしているのだが、財源がないという根本的な問題はどこの国でも同じである。
・その財源の問題を何とかしようとすれば、大増税しかなく、それがまた不況に沈む経済の足を引っ張るのではないかと懸念されている。
・その一方、リーマン・ショックであれほど懲りたはずの米国で、大災厄の元凶だったはずの投資銀行には再び金が集まり出して「元の木阿弥」になっている。
 オバマ政権も当初はそれを何とかしようとしたのだが、結局有効な手が打てず、各国政府も、そこに集まる巨額の投機資金が再び世界を混乱させることがわかっていながら、そのまま野放しにするしかない有様である。
・そのようにして復活した巨額の投機マネーは、現在も原油や農産物など、人々が最も必要とするものの市場に流れ込んでその値段を釣り上げており、それがさらにBの層の生活を苦しめている。
・なお、中東諸国のチュニジアやエジプトでの動乱も実はそれが発端だったのである。つまりそのような国際投機マネーが農産物市場に流れ込んで食料品価格が値上がりし、庶民の生活が立ち行かなくなったことが、デモの最初の原因だった。(そしてその騒乱がネットの力で無制限に拡大し、欧米政府のまずい対応がそれに拍車をかけて、ここまで騒動が大きくなってしまったのである。)
・それらの巨額の投機マネーは、今回の震災でも火事場泥棒のように為替市場で暴れ回り、日本の震災さえも食い物にしようとしたため、各国は協調介入でそれを抑えねばならなかった。今後もそれは日本の復興をさらに足を引っ張ることが懸念されている。

・・・・等々、とにかく一度だけでは到底列挙しきれないほどであり、要するに極論すれば、すべてこのことから発していると言っても過言ではないことがわかる。

理数系武士団の研究‐‐番外編・もし今、司馬遼太郎が「竜馬が行く」を書いたなら「大政奉還」をどう説明したか

理数系武士団の研究 -- これまでの連載
第1回: なぜ今の政界から「現代の竜馬」は現われないのか
第2回: 竜馬のファッションは渋谷系か秋葉系か

 大河の「竜馬伝」も大詰めで、大政奉還のくだりに差しかかっていますが、それにしてもこの国ではあの時、一体なぜあのような「政権を無血で返上してしまう」などということが起こったのか、まことに不思議なことです。
 しかしその舞台裏の仕掛けはそう簡単なものではなかったらしく、「竜馬がゆく」にも大政奉還に関して「政治がもつ魔術性をこれほどみごとに帯びている案はないであろう」と記述されています。ところがその魔術性というものが、当時筆者は司馬作品を読んでさえ完全には理解できなかったような覚えがあります。

 しかし私は、もし司馬遼太郎が数十年後に「竜馬がゆく」の執筆を始めていたなら、そのための絶好の例を一つ挙げていたのではないか、という気がするのです。つまりもし同書の執筆が現在だったなら、この二十年ほどで国際社会に起こった出来事と幕末を比較対照し、それによって話がもっとわかりやすくなっていたかもしれないと思われるのです。そこで一種の番外編として、今回はそれについてちょっと述べてみましょう。

とにかく薩長合わせても量的には絶対弱かった

 この話をする前にまず、一つ見落とされ易い点について述べておくと、とかくわれわれは当時の幕府がひどく衰退していて、一押しするだけで簡単に倒せたというイメージを抱きがちです。
 確かに史実では幕府は本当に倒れたのですから、そう思えるのも当然ですが、しかし実際には、たとえ薩摩と長州が手を組んだといっても、絶対的な体重という点では比較にならないほど幕府よりも弱いものでしかありませんでした。
 それは当時の薩長の指導者にとって、胃が痛くなるような悩みの種で、例えば海軍力だけを見ても、量的には薩摩と長州の海軍戦力を合わせても幕府海軍に全く太刀打ちできず、本気で幕府が海軍を繰り出してきたならたちまち粉砕されてしまう状況にありました。
 大河の「竜馬伝」では何か、薩摩と長州が合同すれば誰が見ても天秤が即座にそちらに傾く、という描写になっていますが、現実は全くそんなものではなかったようです。

幕府が本当に倒れるなんて・・・

 実際に彼らはぎりぎりになるまで、まさか幕府が本当に倒れるとは想像していなかったらしく、とにかく彼らはいざとなったら天皇という切り札だけを抱えてどこかへ逃げ出し、地形の要害の中に篭って抵抗を続けよう、ぐらいにひどく悲観的な予測をしていたと言われます。
 つまり幕府が衰退したといっても、それはちょうどそれは現在の世界で「米国が衰退している」というのに似ていて、確かに今の米国も内憂外患ですが、かといってどこかの国が米国を倒せるかというと、誰もがそれは非現実的だと答えるでしょう。
 そのためこの話は、まずそのフィルターを通して眺める必要があり、実際に倒幕というのは想像されるより遥かに難しいと考えられていたようです。

大政奉還の魔術性(1)・幕府側から見ると

 しかし幕府側は幕府側で悩みは深刻でした。何しろ政権を担っているという責任のため、その体重以上に重い問題を抱えさせられて身動きがとれず、むしろ身軽な薩長を羨ましく思っていたかもしれません。
 そう考えると、いっそ政権を投げ出してしまえば、現在手かせ足かせになっているそうした厄介な政治問題も一緒に投げ出して、一挙に行動の自由度を手にできることになります。
 そしてひとたび行動の自由を得てしまえば、徳川側はその体重差を十二分に活かして薩長を圧倒することができるでしょう。
 こうしてみると、幕府側にとっては「大政奉還で政権を投げ出す」という策が、負けを認めるどころかむしろ意外に「攻撃性」を帯びたものだったことがわかります。

リセットで体重差が活きてくる

 これは薩長側にとっては深刻な懸念で、とにかくそのようにして一種のリセットが行われると、体重の差という弱点(薩長側にとって)が一挙に甦ってきてしまうのです。
 そしてこの「たとえ政権を投げ出しても体重差が残っていれば主導権を奪回できる」というのは、実は少し前の国際社会で(これほど劇的ではありませんが)やや似たことが現実に起こっていました。
 といってもそれは米国のことではなく、むしろもう一方の超大国の話で、ソ連が崩壊して現在のようなロシア共和国に移行する際に、それとかなり似たことが起こっていたというお話です。

ソ連崩壊の「大政奉還

 そもそもかつてのソビエト連邦の内部は、そう思って眺めると徳川時代の日本と一つ共通点をもっていたと言えなくもありません。
 つまり徳川体制の場合、各藩は一種の小独立国で徳川はその盟主に過ぎませんでしたが、ソビエト連邦もそれとやや似て、名目上はウクライナとかリトアニアとかの共和国が「共産主義」という旗印で一つに集まり、ロシアがその盟主として中心にいるという、単なる「連邦」だったわけです。
 しかし当時はもう共産主義は終わりだ、というのが世界的な風潮で、その盟主であることはそれ自体が重荷となっていました。そのためもしロシアが、自分は共産主義の盟主をやめます、と宣言したとすれば、まさしくそれは共産世界の「大政奉還」だったのです。
 
 その場合、ウクライナなどにとっては、ひとたびロシアが共産主義とその盟主の地位を放り出してしまえば、もはや自分たちもロシアと同格のれっきとした独立国で、例えばロシアに従わずに米国と独自に同盟を結ぶなどということをしても、一向に差し支えない理屈になります。
 しかしロシアにとっては、たとえその地位を投げ出しても、旧連邦圏の中ではロシアの体重は圧倒的に大きく、かえってその体重を活かすことで、引き続きそれらの国の盟主たりうる、という計算が十分に成り立ち得ます。

徳川慶喜の攻撃プラン

 これは全く当時の幕府の立場そのもので、徳川慶喜の頭にあったのもこういう構図ではなかったかと思われます。そしてその後のロシアを眺めると、確かにロシアは「大政奉還」に成功したのであり、確かに一時は惨憺たる状態になりましたが、周辺諸国との力関係は昔どおりに復活し、ウクライナなどから見れば、以前と同様の脅威として甦っています。
 逆に言えば薩長が怖れていた事態もそのようなもので、徳川慶喜大政奉還を決意したとき、まさにそういう鋭い攻撃性を意図していたと想像されます。
 そして共産主義を投げ出したロシアが実際にある程度それに成功していたのを見ると、それは決して空論ではなく、薩長にとっての一大危機でした。ではこの手に汗握る状況で、薩長側の思惑はどうだったのでしょうか?

大政奉還の魔術性(2)・薩長側から見ると

 しかし薩長側から見ると、どうやら大政奉還というプランの中には、それはそれで彼らに有利な、全く別のメリットが秘められていたようです。
 つまりもし徳川慶喜大政奉還という驚天動地のプランを打ち出した場合、そのまさに天地がひっくりかえるような衝撃で、少なくともその瞬間には幕府内部も諸藩も茫然自失の状態に陥るはずだということです。
 確かにある程度時間が経ってしまえば、皆がその驚きから立ち直って冷静な判断力を取り戻し、再び防衛体制を整えてしまうでしょう。しかし大政奉還が行われた瞬間には、誰もが何をどうすれば良いのかわからない状態に陥るはずです。(実際に20年前の旧ソ連でもソ連邦解体の瞬間にはそういう麻痺状態が起こりました。)
 要するに大政奉還の瞬間からせいぜい3ヶ月ほどの間は、巨大な幕府が完全な麻痺状態に陥って、何らの組織的な抵抗もできなくなることが予想されるわけで、薩長側が注目したのは、まさに大政奉還のもたらすその側面だったというわけです。

一瞬の麻痺状態を捉えて錐のように江戸を突く

 それにしても現実の史料をみると、薩摩側にとってもこの大政奉還が行われるまでは、どうやら江戸進撃など全くあり得ない非現実的なプランだと考えられていたようです。
 しかし西郷などのたった一握りの人間だけは、大政奉還という予想外の事態によって、ほんの短い間だけそのように薩長側に巨大なチャンスが生まれることに気づきました。つまりこの3ヶ月程度の間だけ、幕府側が完全な麻痺状態に陥って組織的な抵抗ができず、薩長の乏しい戦力でも無人の地を行くような進軍ができるはずだということです。
 しかし逆にその期間を逸してしまえば、今度は大政奉還のもう一つの顔によって、幕府側がどんどん力を増してしまい、そうなればもはや薩長側にはチャンスはなく、下手をすれば滅ぼされるのは彼らの方です。つまり大政奉還によって突然、双方に大勝利と大敗北の可能性が同時に訪れてしまったのです。
 そのため西郷は、この短い期間に全ての決着をつけてしまう以外に生き残る道はないと判断し、その答えが、この短時間の麻痺状態に乗じて一挙に江戸を突いてしまう、という驚天動地のプランだったというわけです。

名人同士の手に汗握る攻防戦

 要するに徳川慶喜大政奉還の一方の側面である「政権という重荷を投げ捨てれば体重差で圧倒できる」という性質に注目し、西郷はもう一方の側面である「皆が呆然としている一瞬の麻痺状態を捉えて心臓部を突く」という性質に賭けたわけです。
 こうしてみると司馬遼太郎の「魔術性を帯びている」という言葉の意味が良くわかります。そして徳川慶喜、西郷の両者ともが、同じ一つの大政奉還というプランの中に、自分の側に有利な最大の攻撃性が秘められていると見ていたわけです。
 そうやって眺めると、この二人の対決はまさにその互いの一瞬の隙を突こうとする、名人同士の手に汗握る攻防戦だったことがあらためてわかります。

竜馬暗殺「薩摩犯人説」は現実的か?

 ところで少し余談になりますが、とにかくそのように当時の薩摩は、たとえ戦争をやっても本当に勝てる自信などなかったらしく、そしてそう考えると例えば「竜馬は本当は薩摩に暗殺されたのではないか」という説なども、そのフィルターを通して見直す必要がありそうです。
 つまりこの時期の竜馬には、少なくともまだ倒幕側の海軍の一翼を担う手駒としての価値があり、状況がよく定まらないこの時期に、手の中で潰してしまうには、少々惜しい駒だったことは確かでしょう。
 確かに竜馬は一時、薩摩に水を差すような邪魔な動きはしたかもしれませんが、その程度のことで早々とそれを潰してしまうほどの余裕が薩摩側にあったのか、どうも私には正直ちょっと疑問に思えてしまうのです。
 

竜馬自身の見解は?

 まあその話はともかく、それならば肝心の竜馬自身はこの大政奉還というプランをどう考えていたのでしょうか?
 筆者の個人的見解としては、基本的なところでは西郷とそう変わらなかったように思えます。ただ一つ違うのは、竜馬の場合にはあわよくば、これでそのまま丸く収まってしまうという可能性も3割ぐらいはあると期待し、その路線も一応捨てていなかった、ということだけでしょう。
 ただし成功の見込みはそれほど高くないので、もしそれがうまく行かなければ、そのまま西郷路線にスイッチすれば良い、というあたりが本音だったと思います。
 そもそも竜馬にとっての最大の関心事は、もし内戦が起こってもそれを長引かせない、ということにあり、それが長引けば西欧列強の食い物にされる、というのが海舟から受け継いだ信念でした。
 その観点からすると、もし内戦が起こっても大政奉還が行われていれば、幕府側は政権という大義名分を失って単なる大きな藩の一つの立場に落ちるので、少なくとも日本を二分する大義名分同士の激突という構図にはなりません。
 そうなれば内戦は確実に小規模になるはずで、多分そのあたりが、竜馬の頭にあったビジョンではなかったでしょうか。(そしてそれは完全にその通りに現実となったのです。)

誰の評伝にも収まりにくい話題

 それにしてもして筆者が最初に「竜馬がゆく」を読んだ時にはさすがにそこまではわからず、その後に旧ソ連からロシアへの移行というドラマを眺めて、初めてその意味がわかるようになったように思います。
 そのため(筆者の勝手な想像ですが)ひょっとしたら司馬遼太郎も天国で、ソ連崩壊の話があればそれを例にとることで、もっとわかりやすくに描けたのに、と悔しがっているかもしれません。
 もっともこうしてみると、その本当のドラマは、竜馬の死後に起こっていたことになるわけで、そこまで書くとかえって劇的に話を盛り上げることが難しくなったということも考えられます。
 そしてとにかく大政奉還の一方の主役は竜馬だったのですから、その肝心の竜馬評伝の中だけではうまく収まりきらないことも、この話がミステリアスであることの一因なのでしょう。

中国メディアの規模をさらにCGで可視化してみた

 尖閣問題で明らかになったように、中国では公的メディアの数時間のオンエアが引き金となって、反日教育を受けた層の力が噴出し、それが日本に向かってくる構造となっている。上の写真はその6時間分のオンエアの力を可視化したもので、これだけで太平洋戦争時の3月の東京大空襲の規模に匹敵する。

 一般に国内問題を外に逸らすために特定の他民族を国民共通の敵として叩くという構図は、基本的にはナチス・ドイツが用いたのと同じ手法である。
 もっとも今後、これが大規模に物理的な暴力に発展すること自体はさほど心配する必要はないが、しかし将来この力がもっと液状化した形で、国際政治・経済のあらゆる場所で隙間を見つけて浸透してくる恐れがあり、その方がむしろ遥かに厄介である。

 ともあれ国内問題の噴出口を日本に向けることが規定路線化していることは確かで(写真の「TOKYO EXPRESS」の文字はそれを意味する対外向けのキャプションである)、この規模から想像すると将来的には尖閣諸島どころではない大きな脅威となることが懸念される。

 現在の反日デモに関しても、一見すると中国政府自身がその力を制御できずに困っているように見えるが、それ自体が有効なデモンストレーション効果を帯びていることは見落とすべきではない。
 つまりもし「日本側が下手に尖閣領有を主張することが世界秩序の撹乱要因になる」という形でそれを既成事実化させた場合、それを一種の抑止力のカードとして用いることで、「日本に泣いてもらう」という結末に国際社会を誘導することが容易になるわけである。少なくとも現在、その威嚇効果が日本側の積極行動を萎縮させていることは事実であろう。

* 中国メディアの規模をCGで可視化してみた >> [id:pathfind:20101022]
* 中国メディアのエアパワーは何機分の航空戦力に換算されるか >> [id:pathfind:20101018]

3・これをCGで絵にすることの日本側のメリット

(この記事は、前出の記事の続きになります。
* 1・「侵略」の概念はどう変わるか >> [id:pathfind:20101007]
* 2・中国メディアのエアパワーは何機分の航空戦力に換算されるか >> [id:pathfind:20101018]
* 中国メディアの規模をCGで可視化してみた >> [id:pathfind:20101022] )


 それにしてもこれがもし絵になるとすれば、その印象は強力で、これをCGで絵にしない手はないだろう。先ほどの「現代の侵略はメディアのエアパワーで行われる」という主張も、言葉だけでは国際社会に十分浸透させることは難しいが、それが強烈な印象の画像になっていれば、話は全く変わってくることになる。
 大体日本の場合、人口が中国に比べて圧倒的に少ない以上、どうしても第三国の海外の人から興味をもってそれを見てもらわねばならない。しかし一般に領土問題というものは当事者と第三者での温度差は想像以上に大きく、他国の政治家同士が討議している様子など見ようとも思わないのが普通である。しかしそのように航空機が舞うスペクタクル映像となれば話は別で、映画の予告でも見る感覚で広く見てもらえることが期待できる。
 また日本では大人や知識人は軍事のにおいのするものには関わらないという通念があるが、海外、特に欧米などでは完全に正反対で、むしろ軍事知識のない知識人は幼稚と見られる傾向があって、そのためこうしたアプローチは日本国内の感覚から想像するよりも遥かにスムーズに浸透させられる可能性がある。
 そのためこれは、今までこの種の問題に関して日本側が抱えていたジレンマや弱点を一挙に解消しうる可能性を秘めており、そこでそれらのメリットについて以下に列挙してみよう。


メリット(1)・このアプローチの場合、日本側は政治的に過熱する必要はない。

 従来からこういう問題が起こったとき、日本側はしばしば一つのジレンマにぶつかってきた。それは、こういう状況下では日本側が冷静さを失った対応に陥れば、必ず不利を招いて結果的に自分の首を絞めてしまう。しかしだからといって、消極的に黙っていれば、長期的にはずるずる押されて不利になり、どちらにしても不利になるというジレンマがあったのである。
 しかしこういうアプローチが使えるとなれば、何か主張したいことがあったなら、とにかくそれらを全部航空機の「絵」にしてしまい、それらを魅力的な作品にしていくことにエネルギーの全てを振り向ければよいのである。
 そもそも領土問題はとかく水掛け論になりやすく、尖閣諸島の問題を単なる言葉で「メディアパワーを使った侵略だ」と騒ぎ立てるだけでは効果が薄い。そして日本人はこういう場合、冷静さを失って暴走し、かえって逆効果になりかねない。
 しかしこの場合には、必ずしもそうした政治的主張は前面に出す必要はなく、それらは背景の中にさりげなく描き込んで、長時間をかけてイメージの奥底に沈殿するようにした方が効果がある。そしてそれを世界中の航空機マニアなら誰でも見たがる絵にして、それを動画あるいは静止画として、海外にも配信していけばよいわけである。


かえって最も安全なガス抜き手段

 あるいはこういうCG映像を作ったりすること自体、日中間の対立を煽る行為とみる向きもあるかもしれない。そしてそんな「寝た子を起こす」真似をするより、台風一過を待って無言で耐え忍ぶ方が得策だという見方もあるかもしれないが、歴史の経験からすればむしろ話は逆である。
 大体において日本人はあまり直接的にデモなどの行動に走らず、しばらくの間は黙って耐えることが多い。しかしその忍耐がある時点に達すると、突然デモなどの合法的手段を飛び越えていきなり陰湿な暴力的手段に訴えるというパターンに陥りがちである。
 そしてその結果、かえって周囲から犯罪者のレッテルを貼られて国際的にも孤立し、商売の上の損害もかえって大きくなるというのが、今まで何度も繰り返されたことだった。
 確かに目先の商売を円滑にするために、相手側を刺激するような行動は極力避けたいというのはわからないでもない。しかし安全なガス抜きの手段が全くないというのは、逆に非常に危険な状態で、長い目で見ると、完全に受身に徹して耐え抜くというのは、実は決して賢明な選択ではない。むしろ何か安全なアプローチを適度に採用することは、消去法で見ると存外一番安全な安全弁を提供することになる可能性が高いのである。


メリット(2)・日本が初めて「映像イメージ」での不利を相殺できる

 そして以前にも述べたが、これによって日本側は今までの「有効な映像素材を持たない」という不利を解消していけることになる。この場合、動画の形で配信できればベストだが、ディテールさえしっかりしていれば静止画でも十分で、無関係な第三国の人でも、ちらりと一目見るぐらいはするのが普通の反応である。
 これは一つ一つはそれほど効果がなくても、一種のライブラリーとして着実に蓄積されていくため、長期間続けていると塵も積もれば山となるで、それは相当な力になるはずである。


・メリット(3)日本の青年のデモなどを組織化するパワーの弱さが響かない。

 国民性の問題もあるのかもしれないが、とかくこういう事件が起こると、中国の青年は割合にすぐにデモなどを組織化して積極的にアピールを行うが、日本の青年はその能力やパワーにおいて中国の青年に遥かに劣るという弱点がある。それが冷静さなのか単なる消極性なのかは判別しにくいが、とにかく結果としてその消極性が不利に働いている部分があることは否定のしようがない。
 しかしこの場合にはその弱点が響かない。確かに日本には外に出てデモに参加しようという青年は少ないが、家にこもってそうした作品を一人で職人的に作ろうとする青年なら、質・量ともに中国側よりも多い。そのため一旦そういう流れが確立すれば、むしろ情報を広く海外に発信することができ、そのCG映像はデモ行進の絵などよりも面白いので、やり方次第ではむしろ中国のデモよりも広い人に共感をもって見てもらえることが期待できるのである。
 つまりこの場合には、秋葉原などに蓄えられている力をこのための戦力に転用するという、これまでの常識では考えられなかったアプローチも可能になってくるわけで、それが主力となっている状態を想像するなら、必ずしも中国に負けないという予感も生まれてくるのである。


メリット(4)・日本側が「冷静さが強さになる」立場に立つ

 そしてこのアプローチが主力になるとすれば、その作業自体が国民に冷静さを要求するようになると考えられるのである。
 この場合、とにかく海外で広く見てもらえるということが最も優先するのだが、プロパガンダのにおいがつくとそれが難しくなる。大体、過去の名作戦争映画を思い出せばわかるように、一般にこういう「絵作り」に際しては、余りにもえげつなく相手側を格好の悪い悪役として描こうとすると、第三者が見て魅力がなく、結局人気は得られない。
 この場合も同様で、むしろ政治的な関心は二の次にして、もっぱら航空機マニアとしての感覚や趣味を全開にして、敵側である中国側の航空機も「悪の魅力」をもつ格好の良い機体として描こうという情熱の方が、かえって強い力を持つことになる。
 そして政治的メッセージは、背景の中に大体10回に1回ぐらいの割合でさりげなく描き込むぐらいが最も効果的なのであり、その意味では冷静な態度の方が効果が高いのである。
 しかしそれはこの問題に対する無関心や消極性にはつながらない。むしろ中国側がもつ問題点を正確かつ冷静に捉え、それをクールな「敵メカ」に表現しようとする高い情熱が要求され、むしろ一種のプロとして積極的にかかわる精神だけは育てることにつながるのである。


新しいフェアプレー精神の確立

 そこでむしろこのさい、それを一歩進めてここではそれに携わる人間の中に一種のプロの武人に似たフェアプレー精神を伝統として確立し、そこに徹することを考えるべきではあるまいか。
 とかくこの種の事件が起こると、無関係な相手国の建物に投石したり、罪も無い相手国の少女に嫌がらせをしたりということが起こりがちである。しかし日本においては「一般市民に無用な暴力を向けず、純粋にそうした映像技術だけで勝負する」というフェアプレー精神が確立されており、ネットの中でさえそれが主流になっているとなればどうだろうか。
 それは恐らく中国のネット社会内部とは対照的で、それは手法の斬新さと相俟って海外から驚きと好感をもって見られる可能性があり、それは長い目で見ると大きな力となることが期待されるのである。


・メリット(5)観光との両立という難題の解決

 そのように、国内のフラストレーションをそこに昇華させていくことができれば、「観光・通商と国土防衛の両立」という解決し難いジレンマにも光が見えてくる。
 つまり中国でどう反日が盛り上がろうとも、日本ではこういう形で反撃を行うことに専念しているため、日本に観光に来る中国人が嫌がらせを受ける心配がほとんどないという状況を作り出せるわけである。
 そういう安全策が確立されておれば、日本国内ではどれほどこれが盛り上がっても、ほとんど観光などに障害が及ぶ恐れがない。現在の状況を眺めると、日本国内では知的エネルギーを下手に日中問題に振り向けると、それらに打撃を与えるのではないかと心配して及び腰になっているようにも見られるのだが、この場合には安心して知的エネルギーを全開でそこに振り向けることが可能になる。


・メリット(6)中国側の攻撃を逆手にとれる。

 従来だと、日本側が1の力で主張すると、中国側が10の力で反撃してきて、とにかくその数の力で到底勝ち目がなかった。
 しかしこの方法の場合、まず最初の時点では、中国側はこのアプローチの長期的な意義に気づかず、特に攻撃目標にする必要性を感じない可能性が高い。つまりそれまでの間は一種の時間稼ぎができて、十分な準備を整えられるわけである。
 そしてもし中国側がメディアで暴力的な攻撃をかけてきたら、むしろ格好のネタを提供してくれたと思って、それらも片っ端から「絵」にしてしまえば良い。
 つまりこちらは冷静に「絵作り」に専念し、むしろ中国側の強さを逆手にとってこちらの強さに変えてしまえば、長期的にはどんどんこちらが有利になっていくわけである。
 これはネット上でサイバー攻撃をかけてきた場合も同様で、こういう場合、もし海外に映像を見てもらえるファンがいて、一緒にその被害を受けたとすれば、それらの人々も共通の被害者としてこちらの立場に共感してもらえることになり、それも力に変えることができるわけである。


秋葉原パワー」と「憂国シニア層」をつなげることが最大の鍵

 では現在の状況で、これを現実に動かすためには何が最も重要になるだろうか。結論から先に言うとこの場合、「秋葉原パワー」と「憂国シニア層」をつなげることが、最大の鍵であると考えられるのである。
 中国の場合、国粋主義の主体となっているのが若者層であるのに対し、日本では若者層は今日明日の自分の生活をどうしようかということに手一杯で、むしろ憂国の情(正しい意味でも)を最も強く持っているのは、経済的な心配のさほどないシニア層である。
 一方、こうしたCG画を作る高い技術力は、何と言っても秋葉原の若者層が持っているはずだが、そこは国際問題の議論の場としては社会的に認知されていない。つまり秋葉原の若い技術力と、憂国シニア層の情熱や社会的な力が全く離れていることが弱点なのであり、逆に言えばそこが何らかの形で結びつけば、大きく前進を始めると想像されるのである。


将来の可能性

 そして将来的には、純粋に作品としてレベルの高いものは、ネットの人気投票でギャラリーに並べて、海外へ向けて容易に配信できるようにし、さらに特に優秀な作品に対しては、国内の比較的裕福な、憂国の情の強いシニア層などがカンパして支援するような体勢を作っていけばどうだろうか。
 これはそれほど大規模な資金である必要はなく、シニア層から見ればほんの僅かな金でも、秋葉原のそうした若者層にとってはしばしば大きな恵みの雨で、その面で「費用対効果」は非常に高いものがあると想像される。
 こうした映像は、よほど特殊な技能をもった者にしか作れないと思えるかもしれない。しかしやってみると、意外なほど簡単にアマチュアでも作れてしまうのであり、極論すれば、やる気と工夫だけが問題なのである。
 そういう場合、シニア層の僅かなカンパが、その力を覚醒させる呼び水として馬鹿にならない力をもっており、もしその規模がある程度にまで拡大すれば、そういう能力を持つ若い層の新しい引き受け先の一つとして育っていくことも十分あり得る話で、そうなればまさに一石二鳥である。
 確かにそれらは一つあたりの力は微弱で、政治家の発言の数百分の1程度の力しか持たない。
 しかし先ほど述べたように、それは海外での浸透能力はむしろ高く、そして時間をかければ確実に蓄積していって、時間と共に力を増すことになる。
 そのためこれが軌道に乗れば、ある時点で確実に政治家の力さえも上回ることが十分期待され、日本の外交下手をカバーできる可能性も十分にあると考えられるのである。

中国メディアの規模をCGで可視化してみた

尖閣諸島を制圧するために日本に向けられる中国のメディアの規模を可視化したもの。
写真に写っているのは中国の仮想保有機数5万2千機のうちのごく一部で、僅か1時間のオンエアでこれだけの出撃規模になる。この場合、6時間のオンエアで1945年の東京大空襲の出撃機数を上回る規模になると計算されている。

・中国メディアのエアパワーは何機分の航空戦力に換算されるか >> [id:pathfind:20101018]

2・中国メディアのエアパワーは何機分の航空戦力に換算されるか

 さて中国の新しい「三戦」の戦略思想で、メディアの力が実質的に空軍力と同様の存在に膨れ上がり、「形のない戦争」の主力として尖閣諸島周辺にも進出してきているというわけだが、ここでもう一歩大胆に踏み込んで、一つ面白いことを考えてみたい。
 それは、その尖閣諸島問題に動員されている中国のメディアの力は、もし航空戦力に換算したならば、一体何機分ぐらいの戦力になるのだろうかということである。
 いきなり途方もないことを言い出すようで恐縮だが、実は先ほど述べたようなことを行うに際しても、その数字は馬鹿にならない重要性をもっていると考えられるのである。そこで以下にそれを少し見てみよう。


言葉だけでは超えにくい「最小語数の原理」の壁

 以前にも述べたがこの場合、日本にとっては中国の直接軍事力を使わない行動に「侵略」というレッテルを貼れるか否かが一つの鍵となる。しかしそうしたレッテルの攻略を行うためには、実はそれを下から支援する「絵」がどうしても必要になるのである。
 そもそも言葉の議論だけでその攻略を行うことは非常に難しい。それというのも一般にそこには防御側を一方的に有利にする仕掛けが存在しており、先にレッテルを確保した側はその利点を活かして相手側の反撃の頭を押さえ続けることができるからである。
 そのためしばしば、最初の時点の優劣が何十年もそのまま維持されるということが起こるのであり、実際に日本が数十年間、そこから脱出できないのも基本的にはそれによるのである。(この話自体は本題から外れるのでここでは省くが、それは「最小語数の原理」というものに基づいており、その原理の詳細は「無形化世界の力学と戦略」に詳しいので、そちらを参照されたい。)


「絵」の素材でも日本側が不利

 そのためいずれにせよ、何らかのイメージ戦略によって十分に地ならしをしておいて、十分に外堀を埋めてから本丸に迫るというアプローチを採らざるを得ない。
 ところが現在、その肝心な「絵」に関しても日本側は有効な素材をもっておらず、逆にそれを持っているのは中国側である。つまり中国側は自分が不利になってきたら、過去の太平洋戦争時代の大量のモノクロフィルムをイメージ戦略の素材として用いることができる。
 それらは多少陳腐化しつつあるとは言え、中国の官製メディアとネットが一致して動ける主題としての意義は失われておらず、日本側には今のところそれに対抗しうるだけの強力な「絵」のストックが十分にないのである。


CG画像を作って対抗する

 しかしそういうことなら答えそのものは単純である。要するに中国側が大戦中のモノクロフィルムを引っ張り出してくるなら、日本側はそれに対抗して、強圧的な中国メディアの力を一種の空軍力として描き出し、航空機の大群が空襲を加えるCG映像をどんどん作って海外に配信すればよい。
 確かに一応それは上の問題に対する一つの答えにはなるのだが、しかし単にその程度のことでは十分な効果があるかどうか、まだ少しばかり心許ないと言わざるを得ないように思われる。
 とにかくこの場合、海外で見てもらうということが何より大事なのだが、そもそも他国間の領土問題という話題は他人事として関心を惹きにくい。そのため第三者の外国人の立場から眺めると、単に飛行機が爆弾を落とす絵を見せられてこれが中国のメディアだと言われても、それは唐突な比喩に過ぎず、新手の大袈裟なプロパガンダにしか見えない可能性が高いのである。そのためこの絵が説得力をもつためにはもう一ひねりする必要があるだろう。


データベースに使える絵なら人は見る

 ではどうすれば良いかというと、この場合もし科学的に「中国のメディアが航空機何機分に相当する力で国境線を圧迫しているか」がきちんと数字になっていれば、その絵は単なるプロパガンダであることをやめ、一種のデータベースとしての価値を帯び始めるということである。
 つまり今までは中国のメディア規模などについて知りたい場合、無味乾燥なデータ図表などでしか把握できなかったが、もしそれが航空機何機分なのかの数字がわかっていれば、それをCG画像の中に航空機の機数の形で正確に描き込むことができる。そしてさらにメディア戦略の特性などもそこに描き込まれていたとすれば、図表のかわりにCG画像を眺めることでそれらを一目で把握でき、領土問題などに関心のない人でもそれを一種のデータベースとして活用できるだろう。
 そうやって使ってもらっているうちに「中国メディア=航空戦力」というイメージが無意識に頭の中に定着し、いわば外堀を埋める形で、次のステップのための着実な地ならしをしてくれることを期待できるわけである。


不可欠な「機数換算」というブレークスルー

 もしそういうことができるなら、日本語という言葉の壁がないため海外への配信も容易で、第三国でも広く見てもらうことができるだろう。また一般に言葉だけの議論はちょっとした反論ですぐゼロにリセットされてしまって、内容ごと忘れられやすいのに対し、絵やイメージ映像の方が言葉よりも頭の中に残り、長時間をかけて蓄積され易いメリットもある。
 しかし無論そのためには一種の技術的なブレークスルーが不可欠で、その「機数換算」のメソッドをどれだけ「科学的」な形で確立できるかが大きな鍵となる。実際問題「メディア1局での何時間のオンエアが何機分の力をもつ」というところまで精密に換算されていないと、どうしても説得力が生まれないのである。
 そのため今度は、そんな常識外れのブレークスルーをどうやって達成するかという難題にぶつかってしまうのだが、ところがそのために使えるような手法が、実はすでに「無形化世界の力学と戦略」の中で確立されていて、ここでそれを使うことができると考えられるのである。
 同書で行われていた分析は、ベルリンの壁崩壊に関する話だったが、それは中国にも十分転用することが十分に可能なのであり、次にそれを見てみよう。

参考・過去の事例=ベルリンの壁と西側メディアの力

 もっとも、そもそもなぜベルリンの壁がメディアと関係があるのかがぴんと来ないという方もあると思うので、まずそこから述べておこう。
 実はベルリンの壁崩壊に際しては、そのしばらく前から西側メディアの電波が、衛星放送などを通じて相当に東側諸国の国内に侵入しており、それが各国内部で政府当局の情報統制を無力化していたと考えられるのである。そのためそれが壁崩壊に大きく影響したということはほぼ間違いないとされ、そのこと自体は一つの歴史的事実として広く認められている。
 言葉を換えると、それらの国の共産政権は当時、一種の「メディアによる形のない空襲」に連日晒されており、ベルリンの壁の崩壊は、その最終的な結果であったとみることもできるというわけである。

 普通の文系の常識だとそこで話は終わりなのだが、理系側としてはそのパワーが具体的にいくらだったかが気になる。特にそれが物理的な破壊力に換算していくらぐらいだったかを知りたくなり、いっそのこと、それが航空爆弾何トンに等しい力で国際社会を動かしたかを計算してみようということになった。要するに早い話、ベルリンの壁の崩壊の際に西側メディアのパワーが及ぼした力の「見える化」である。
 そしてその際に何が最大の関心だったかというと、それはその計算値を過去の「形のある戦争」の歴史データと比較したとき、両者がどの程度一致していたかということである。
 この場合、もしベルリンの壁を壊したメディアの力の値が、過去の「形のある戦争」で同程度の壁や堅固な構造物を破壊するために使われた航空戦力の数字と一致していたとすれば、大変面白い発見で、それができれば現代の形のない戦いを過去の歴史とシームレスに繋ぐことができるようになるわけである。(その話はちょうど現在なら、尖閣諸島を軍事的に占領する際に必要な航空戦力と、中国が軍事力によらない「三戦」で同様のことを行なう際に必要なメディアのパワーが、どの程度一致するかという話のようなものである。)


壁は航空戦力で何機分の力で破壊されたか

 ではその結果はどうだったかというと、同書でそうやって計算したベルリンの壁の数字を、過去の「形のある戦争」で同程度のことを行う際に要求されていた数字と比較すると、少なくとも感覚的には割合に近い値となって現われていたのである。
 その詳細は「無形化世界の力学と戦略」を参照されたいが、これ以外の様々な問題に関しても、両者は大体1.5倍以内の誤差でかなりよく一致しており、この種の計算では一桁や二桁は狂いが出るのが当然であることを考えると、驚異的に良く一致していたと言える。
 
(注・その計算メソッドの妥当性自体は理系世界の議論となってしまうが、とにかくそれはかなり基礎的なエネルギー換算から積み上げられたもので、まず15秒CM1本のオンエアが国境線を動かす力を日本のメディアの広告予算額から割り出し、それが航空爆弾何kgの力に相当するかを算出する。そこから日本の国内メディアの規模が航空戦力何機分に相当するかを求め、続いて各国のテレビ受像機数のデータを介して最終的に東欧までたどり着くという、複雑な手順を踏んで求められている。
 一応その結果の数字も示しておくと、それは航空戦力換算で約570機、投弾量換算で航空爆弾1万7000トンの力でベルリンの壁を破壊したという値となっており、詳細は「無形化世界の力学と戦略」を参照されたい。

 確かに当時はこれはおよそ日本の読者向きではない「ぶっ飛んだ」話題で、どちらかといえば欧米の読者向きのものだったが、むしろ現在の中国問題を考えるとまさにうってつけのメソッドで、逆にこの状況下ではそのぐらい常識外れのスケール感のものでないと役に立たないと考えられるのである。


中国への適用

 それはともかく、そのような計算ができるとなれば、これを現在の中国のメディア状況に適用することも十分可能になってくる。
 つまり尖閣諸島問題において中国が動員している「形のないエアパワー」が、航空戦力に換算すると一体全体どのぐらいの戦力になるのかという数字(それは恐らく密かに多くの人が心の奥底で知りたがっているのではあるまいか)が、これを応用すると正確に計算できることになるわけである。
 そうなればその姿を脅威的な印象と共に正確なCG映像として描き出し、それを海外に配信してデータベースとして使ってもらうことも十分できることになる。そこでそれを以下にやってみよう。
 ただし残念ながら現在、尖閣諸島問題それ自体に対しては、計算に必要なデータが一つ不足しており、それは中国のメディアが現在、これに関する報道に国内メディアの放映時間の何%を割き、合計何時間のオンエアを行っているかの数字である。
 それが手元にないので、さすがに現段階ではそれ自体は計算できないのだが、しかし現在の中国が動員できる「形のないエアパワー」全体が、航空兵力に換算すると一体何機分に相当しているかは、現時点でも一応計算が可能なので、ここではそちらをやってみることにしよう。


現在の中国メディアの航空戦力換算

 先ほどのベルリンの壁の計算では、そこにたどり着くための手がかりとして、まず80年代当時の日本のメディアの規模が航空戦力換算でどのぐらいだったかの値を計算し、続いて日本と東欧のテレビ受像機の台数を比較することで、東欧の数字を求めるという手順を踏んでいた。そのためここでも同様の方法を用いて、現代中国の場合について計算してみよう。
 まず先にテレビ受像機数のデータの方から示しておくと、現在の中国のテレビ普及率は、農村部で100世帯当たり約85台、都市部で100世帯当たり約130台で、中国国内の合計で受像機の数は約4億台と推定されている。それに対して、80年代当時の日本国内のテレビ受像機数は約3300万台である。
 一方80年代当時の日本全体のメディア規模は、「無形化世界の力学と戦略」では
・航空機に換算すると約4300機
という数字として算出されていた。そしてここで、各国の仮想的な機数がテレビ受像機台数にほぼ比例していると仮定すると、中国の仮想的な航空機数は、この日本のメディア規模の数字を先ほどのテレビ受像機台数の数字を用いて拡大すれば求めることができる。そしてそれは、
 (4億台/3300万台)×4300機=約5万2千機
という形で計算されるのであり、要するに

・現在の中国のメディア全体のパワーは、航空戦力に換算すると約5万2千機分の力をもつ。

という衝撃的な数字が浮かび上がってくることになるわけである。
 無論その全部が尖閣諸島に向かっているわけではないが、それでもこの一部が尖閣諸島周辺の制圧のために乗り出してきていることはまぎれもない事実である。


この数字の秘める意味

 これを見るとあらためて慄然とすると共に、ただ単に政府の弱腰をなじるだけでは駄目で、どうしてもこの数量的な力に対抗することを考えねばならず、その認識を踏まえた上で、一種の航空戦略に基づいた抜本的な対応が必要だということが切実に理解できるのである。
 確かにこの「メディアの力が航空機で何機に相当するか」という話は、いきなり聞くと何だそれは、という唐突な印象が強いのだが、逆に一旦その最初の抵抗感の壁を超えてしまうと、その人の頭の中ではもはや「侵略」の定義に関する従来の常識の壁も消滅し、中国の「三戦」のように直接軍事力を使わない領土拡張も、自然に頭の中でそちらに分類されるようになる可能性が高いのである。
 そのためこれはその壁をスムーズに超えさせるための強力なツールとなると期待され、この数字に基づく映像はその浸透力と相俟って、対外的に外堀を埋める非常に強力なカードになると考えられるのである。

(以下「3・これをCGで絵にすることの日本のメリット」>> [id:pathfind:20101027] に続く)

新時代の侵略はメディアという「形のない空軍力」を用いて行われる

中国の新しい「形なき戦略」

 最近の中国の戦略的な動きとして、しばらく前から中国政府が「形のない戦略」を主力として用い始めていることが注目されているが、今回の尖閣諸島を巡る一連の出来事は、まさしくそれが本格的に用いられた事件だったと言える。
 その中国の新しい戦略は「三戦」主義と呼称され、次の3本の柱から成るとされている(毎日新聞10年8月13日)。それらは
・世論戦 =国内および国際世論を中国に有利に誘導する
・心理戦 =相手国に心理的な揺さぶりをかける 
・法律戦 =法的側面で中国の立場を強化する
の3つで、その思想は03年末に「人民解放軍政治工作条例」に加えられて、これからの中国はそれを柱とする「形なき戦略」を主力にしていくということが半ばはっきり宣言された。そして米国の戦略研究者もそれを「Three Warferes」と呼んで検討に入っていると伝えられている。
 その「形のない戦略」では、無論表に立っているのは中国政府だが、その拡張主義の背後に、力を増しつつある中国経済の存在があるのは言うまでもない。しかしむしろその拡張主義の最大の根源的な力となっているのは、何と言っても中国の国内世論とメディアのパワーの力であろう。


むしろ背後の中国メディアのパワーこそが脅威

 現在の尖閣諸島の問題でも、中国がメディアとネット上で領有権を一方的に叫び立てて日本側の声を圧倒しており、それが「形のない力」の一番の主力を構成していることは間違いない。
 実際に、中国政府の強硬姿勢は、むしろ国内のその力に逆らうことを怖れてのことだったとの見解もあり、だとすればそちらの方が状況はかえって厄介である。つまりもし中国政府の思惑や政治的判断以前に、それが恒常的な圧力として存在しているとなると、政府間の外交努力だけでは限界があり、その本質的部分への対処が必要となるからである。
 しかし実は13年前の拙著「無形化世界の力学と戦略」は、まさにそうしたことを根本的なレベルから論じた書物だった。特にメディアの力を「形のないエアパワー」として一種の空軍力に位置づけ、それを「情報制空権」と呼ぶという点など、中国のそれよりさらに徹底していたと言える。
 同書の出版当時の時点では、そうした主張はまだ周囲の一般常識からはかなり飛躍したものだったが、しかし13年を経て現在、とうとう中国がそういう軍事力を用いない「形のない」戦略に本格的にシフトを始め、そしてその「形なきエアパワー」を中国は東シナ海での権益拡大に露骨に用いようとしているというわけである。


変更が必要となっている「侵略」の定義

 そう考えると、現代世界で領土拡張や侵略が行われるとすれば、それらも軍事力よりもむしろメディアなどの「形のない力」を主力として行われる可能性が高いことになり、そうなってくると、新時代では「侵略」の定義そのものも修正を加える必要が出てきてしまう。
 もっとも過去の歴史を見ると、領土拡張を行っている側が自分から「侵略」という言葉を用いることは滅多になく、それに関する定義を行うのは、もっぱらそれを受ける側の国の仕事である。つまりそれは日本側などによって、中国の「三戦」宣言と釣り合いをとる形で行われる必要があるというわけである。
 要するに日本としては、「新時代の侵略は、メディアという『形のないエアパワー(空軍力)』を主力にして行われる」という新しい定義を採用し、それを何らかの斬新な方法で国際社会に流布・定着させていくことが必要だというのが、この稿の内容である。

そのため以下
 1・「侵略」の概念はどう変わるか
 2・中国メディアのエアパワーは何機分の航空戦力に換算されるか
 3・これをCGで絵にすることの日本側のメリット
の順に論じていくことにしよう。


1・「侵略」の概念はどう変わるか



歴史は何をもって「侵略」と呼んできたか

 その前に、そもそも歴史の中では何が「侵略」と定義されてきたのかを見ておかねばならない。まず古典的な常識からすると、次の二つの条件が満たされた時に、それは「侵略」と呼ばれてきたと言える。すなわち
1・ある国が十分な法的根拠なしに一方的に他国の領土に対して領有権を主張し、
2・暴力的なパワーによる強制力を用いて、相手側の意志を完全に排除し、事実上相手との合意抜きでその領土を自国に編入する。
の2つの条件である。
 従来の世界では、相手国の意志を完全に圧殺できるような力は軍事力だけだったが、新しい世界ではメディアの力がそれに準ずる力を有しており、むしろ容易に使える利点ゆえに、軍事力にとってかわって主力の地位につく形になっている。


メディアの力は空軍力そのものと化した

 もっとも現代世界でそうした「形のない暴力的なパワー」を探すならば、例えば暴走するマネーのパワーなどもその範疇に含まれるかもしれない。しかし一応それでもその経済行為は、名目上は全て売り手と買い手の「合意」のもとに動いていることになっている。ところがメディアが暴走して少数者に襲いかかる時、その最後の一線さえもがしばしば無視されるのである。
 つまりそれは少数者の意志を完全に圧殺して、一切の合意抜きに強者が望みどおりに状況を動かすことができるのであり、その意味では暴走するメディアは、現代の形のないパワーの中でも最も軍事力の暴力性に近い性格をもっていると言えるだろう。そしてそこに電波で空を飛ぶ「オンエア」という性質を加味すると、結果的にそれは空軍力に最も近いものとなっているというわけである。


「情報制空権」なくしては政府も何もできない

 これは現在の国際社会では最も強い力の一つで、実は経済制裁などの手段にしても、政府がそれを採用する際にはそれは必ず自国内にもブーメラン的な損害を与えるため、実は国内外において十分な「情報制空権」(先ほどの言葉を使うならば)が確保されていることが前提なのである。
 逆に言うと今回も、もしメディアの情報制空権が無かったとすれば、中国政府といえどもああした強硬姿勢をとることは不可能だったと考えられる。というより、そもそも現在の中国では政府とメディア(ネットも含めた)のどちらが拡張主義の主力となっているかがわかりにくいのだが、いずれにしてもこれこそが背後のパワーの根幹であることは間違いない。


「三戦」では領土拡大もメディアが戦力の基幹となる。

 そのため現代世界で、もしメディアの力がそのように「形のない空軍力」として軍事力にとってかわり、国際情勢を動かす力の主力の地位についているとすれば、もはや軍事力を用いたものだけを「侵略」とする旧来の常識は半ば意味を失っているはずなのである。
 つまりもしある国が軍事力のかわりにメディアを暴力的に用いて相手国の主張を数の力で圧倒し、結果的に領土拡張を行うことに成功したとするならば、それは間違いなく「侵略」に当たることになり、周辺諸国はそれを正式にそう呼称する権利を有するわけである。


レッテルの有無による決定的な力の差

 そして特に日本の立場からすると、それが「一語のレッテル」として定着するかどうかが一つの壁で、その壁を超えられるか否かが天地ほどの違いを生じることになる。
 それというのも一般に言葉の力というものは、それを「一語」の単純なフレーズにした時にのみ、強烈な力を持つが、二語以上の場合には決してそうならないという性質があるからである。つまり政治的主張は「一語のレッテル」になることで初めて魔物のような打撃力を帯びるのである。
 そして過去数十年間の日中関係では、まさにそのように中国は日本を制圧するカードとして、過去に日本に貼られた「アジアの歴史における侵略国」というレッテルの力を最大限に活用してきた。
 実際にその力があればこそ、中国は70年代に尖閣諸島付近で海底資源が見つかった際に、一方的にその領有権を主張し始めることができたのであり、恐らくそれがなければ、当時その主張は日本側によって即座に一蹴され、最初からこの問題自体が存在しなかっただろう。


それを利用した中国の戦略

 逆に言うと、レッテルを確保していない主張は無力で、国際社会ではその壁を超えるか否かのみが意味をもつと言っても過言ではない。
 そしてこの問題においては、今までの常識では軍事力を使ったものだけが「侵略」だったため、中国側には自分がそのレッテルを貼られることへの恐れが希薄である。そしてその旧来の常識が壁として存在している限り、中国側は次のような戦略をとることができる。
 つまり中国側としては、その壁ぎりぎりに近づくまで強圧的な圧迫を加え、壁の直前で軟化して引き返すことを繰り返し、その往復運動を繰り返す間に全体を少しづつ前進させていけばよい。そうすれば、徐々にかじり取るような形で長期間かけて「三戦」を着実に推進させていけるのである。


日本外交は後半戦でも完敗か

 こうしてみると、今回の尖閣諸島での中国の戦略は、まさにその実例そのものだったと言える。つまり中国は前半で強圧的な圧迫を加え、外交上の(中国にとっても予想以上の)勝利を収めた後、壁ぎりぎりで軟化に転じた。
 そのためこのままの状態で鎮静化に持ち込むことができれば、後半も完全な成功だということになるだろう。こうしてみると実は表面的な印象とは異なって、日本側にとってはむしろ後半戦こそが大事だったのであり、帰り道こそが中国の弱点だったのである。
 つまりこの状態で鎮静化してしまうことは、実は中国側に安全な撤退を許してしまうことを意味するわけで、それを考えるとどうやら日本外交は二重に敗北していたことになるのではあるまいか。おまけに日本側はそれに乗じてこの壁を超えることに関しては、ほとんど成果を収められずにいるため、まさに前半・後半ともに中国の完勝だったと言わざるを得ない。
 とにかく中国側としては、この壁の存在を最大限に活用し、このような行動パターンを繰り返していけば、いずれ目的を達成しうるというわけである。


弱点の数をイーブンにできる可能性

 だとすると、仮にもしそうした行動が正式に過去の軍事的侵略と同一に扱われ、歴史においても「侵略」と正式に呼称されるようになるとすれば、その意味は日本にとって小さくない。
 現在の日本と中国の立場を比べると、日本側が領土防衛という弱点を抱えているのに対し、中国側はそうした弱点をもたない。ただでさえ基礎条件がそのように一方通行的であるのに、その上さらに中国側は、過去に獲得したレッテルの優位を活かして日本側を空から制圧できる状態にあり、逆に中国側は旧来の常識の壁に守られて、そういうレッテルを貼られる恐れはない。
 ところがもしその常識の壁が取り払われるとすれば、中国側は過去に日本に貼ってきたのと同じレッテルを自分が貼られてしまう恐れが出てくる。
 そうなれば、今まで中国が日本に対して一方的に使えたそのカードが相殺されて、事実上無効化されることになるだろう。中国にとっては、それを失うことは長期的に見て、日本が尖閣諸島を失うことに劣らないほどのダメージになり、双方が一個づつ弱点を持つ形で、戦略的立場はイーブンになる可能性があるのである。
 そのためその常識の壁に穴を空けて、言葉の「一語の魔力」が中国側にも及ぶような形に持っていくことは、実は日本側にとっては想像以上に大きな意味を持っていると言えるわけである。

(以下、「2・中国メディアのエアパワーは何機分の航空戦力に換算されるか」>> [id:pathfind:20101018]に続く。)